歴史

精神科医療の歴史(日本史)

今回は、日本の精神科の歴史を見ます。

古代から中世にかけての精神科医療

まず、ざっくりと平安時代頃まで、精神科疾患は、「物憑き」「物狂い」といった鬼神的な観念として存在していたようです。精神疾患患者は、医療の対象というよりは、僧や神官によるお祓いの対象・保護の対象と見られていたようです。精神疾患を指す言葉として「癲狂」という言葉が中国から伝わっていたり、「ものくるひ」などの和名が存在していたりします。

頭に葉っぱを乗せたキツネのイラスト

例えば、統合失調症は、100人に一人くらいは、どの地域どの時代でも、罹患する病気です。ふるくから精神疾患の存在は認知されていたようです。(「日本書紀」の時代から発達性運動失語や「狂」の記載があります。)

精神科疾患の始まり・奈良の養老律令

日本で癲狂のことがはっきりした形で現れるのは、(略)、養老2年(718年)に藤原不比等を総裁として編纂が終わり、天宝勝宝9年(757年)5月から施行された養老律令においてである。

日本精神科医療史

養老律令は中国・唐の律令に習って作られたものです。養老律令の公定注釈書なども存在するようですが、すべての医療の話の起源は唐のようです。養老律令においては、精神遅滞や精神疾患、てんかんは病(やまい)と認識されていたようです。

元正天皇が「悲田院」という療病院を建設して病気になった人の救済もしていたようです(精神疾患にかかわらず全ての病気など)。ただ、精神科疾患に特別な治療施設もなかったともされています。

平安時代から江戸時代にかけての歴史

精神疾患の原因解釈・もののけ

平安時代以降も、中国から、医療の情報が入ってきたり、「癲狂」関連の絵が描かれていたりします。また、「もののけ」などの概念もあったようです。「憑き物」「妖狐」などの考え方は、長くあった様子。江戸時代には、漢方が発達したり、洋学が入ってきたりもしていたようです。(詳細は日本精神科医療史を読んだ方が絶対に面白いです。以降の話も日本精神科医療史から多く学んでいます。)

病院の歴史~主に寺による治療

念仏を唱えるお坊さんのイラスト

京都の大雲寺が治療施設として有名です(冷泉天皇(在位967-969)の妃である昌子の精神病治療に関わるなど)。大雲寺は今でも脳病平癒などをうたっています。

それ以外でも「僧医」は大きく活躍していたようです。僧は中国に行って医業を学んでいたり、加持祈祷ができたり。「もののけ」というものに退治する存在だったりします。医者が十分に活躍していない時代は、僧が医師として活躍していたようです。(今でも、精神疾患に対して、祈祷をお願いする方はいるようです。)中世の当時、精神科疾患の治療は宗教的な加持祈祷や灌水が中心だったようです。

1332年には光明山順因寺(灸寺)にて、1599年には爽神堂にて、今に続く「癲狂」治療所が出てきたようです。(前者は羽栗病院後者は七山病院となっている。)それ以降も寺院中心に、精神科疾患を扱う施設が、作られました。(1890年ころ石神井慈療院(現慈雲堂病院)など)

公立の病院としては1879年に東京府癲狂院が作られたのが最初になります。府立巣鴨病院、府立松沢病院、都立松沢病院と名前を変えて現在に至っています。

単純な僕の考えですが、寺社は、静かに決まりきったことを行なうことが多い環境です。精神疾患の方が作業をしたり生活を営むのに適した環境があったのだと考えます。

精神疾患患者を巡る法制度

精神疾患患者に対して、最初に規定して保護の対象者としたのは奈良時代の養老律令でした。(上記)しかし、その適応範囲は次第に狭められていったようです。それ以降、鎌倉・室町・安土では、様々な法律(有名どころで言えば御成敗式目)などで「癲狂」に関する記載は無かったようです。(罪の軽減になることはままあった様)

徳川吉宗が定めた「公事方御定書」では、本人の罪はそこまで重くない(「押し込め」)が、その親の監督責任や保証責任が問われたようです。同時期には、精神疾患患者を牢屋に入れておく制度があったようです。

入牢:官において精神疾患の者を牢屋に入れる。主に治安的な理由で、治療目的ではなかった。

日本精神科医療史

「家族が犯した罪を背負うくらいなら、家族を牢に入れてしまえ」ということでしょう。明治時代以降問題となる「座敷牢」もこのような経緯で生まれたと考えられます。(「精神疾患患者が問題を起こして家族が困るくらいなら、閉じ込めてしまえ」という考え方。)

(ここまで参考:日本精神科医療史)ここから明治以降について書いていきます。

明治以降の精神科(特に法律について)

1900年「精神病者監護法」

日本における精神障害者に関しての初めての法律は、1900年(明治33年)にできた「精神病者監護法」です。 都道府県知事の許可を得れば精神病者を自宅で監置できるという法律でした。

これもまた「精神疾患患者がトラブルを引き起こしてしまうなら牢に入れてしまえ」という考え方に基づくかと思います。特に文明開化から、大きく社会が変わりゆく中で、精神疾患患者を「家族でどうにかしてくれ」という法律と言えるでしょう。

当然、自宅に閉じ込めていても、精神疾患がよくなることはほぼないです。患者は医療が十分に受けられず、家族の負担も大きかったようです。

明治時代になると、近代化のために伝染病患者の隔離が急務となり、その延長として精神病者も隔離の対象となったようです。

牢屋に入れられた人のイラスト

1919年「精神病院法」

「精神病者監護法」は家族の負担が大きく、本人も治療を受けられずで大変問題がある法律です。それがうまくいかずに、1919年(大正8年)には「精神病院法」ができました。これは都道府県が精神病院を設置できるという法律です。

私宅への監禁が、義務化される中で相馬藩藩主誠胤が監禁され死亡する事件が契機となり、私宅監禁から「精神病院」への監禁へと移行したと言われています。

一応には、精神科病院を設置できる制度はできたのです。ただこの法律による病院の設置はあまり進みませんでした。(理由は主に以下の二つが考えられます。)

  • 国の予算が十分ではなかった。・・・精神科は結構カネがかかったりする。精神科にお金をかけるくらいなら、軍備に充てた方が良いと考えられたのかも。
  • 私宅監置も継続されていた。・・・「精神科患者をを外に出すのは『恥』」という考えから、私宅監置がなされてしまうのは、理解ができる。(現代でも、精神科疾患患者を家で放置されていたりする。)

当時の日本は,莫大な国防予算で財政的ゆとりがなく,鹿児島(1924)大阪(1926),神奈川(1929),福岡(1931),愛知(1932)の 5カ所に公立精神科病院が設立されたにすぎない.したがって,最盛期には 5 万床程度まで増加した病床も,その大部分は民間に依存していた

http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse1627.pdf

1938 年に厚生省が設置されるが,精神科病院は内務省(警察)の管轄下に置かれ,治療より治安維持が重視されていた.わが国の精神医療体制は,質量ともに未整備なまま第二次世界大戦に突入することになる.精神科病院の大部分は,軍病院として接収されたので,終戦時には 4,000 床程度まで減少する.こうした意味で,本格的なわが国の精神医療・看護の歴史は,終戦後の 1945 年から始まるといってもよいだろう.

http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse1627.pdf

余談ですが、ドイツに留学していた東京大学教授の呉秀三らが頑張ってドイツの精神医学を持ち込もうとした努力の賜物でもあります。呉らは私宅監置の全国的な実態調査を行い、1918 年にその結果を「精神病者私宅監置の実況及びその統計的観察」として公表しており、今では多くの本がこれを参照しています。

精神科病床増加の時代へ

1950年「精神衛生法」~私宅監置の終了

1947 年に精神医療行政は,内務省(警察)の手を離れ厚生省に移される

http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse1627.pdf

私宅監置が終わりを見せるのは、1950年(昭和25年)に精神衛生法が成立してからです。この法律ができるときに、上記の精神病者監護法・精神病院法は廃止され、精神疾患患者の私宅監置が禁止されました。「私宅監置(座敷牢)」の風習からの解放には大きな意味があったでしょう。他にも以下のものが定められました。

  • 公立精神病院の設置義務
  • 同意入院制度
  • 精神衛生鑑定医制度
  • 精神衛生相談所が設置

措置入院や同意入院などの実質的な強制入院制度が創設される.したがって,本質的には精神病者監護法や精神病院法の治安的側面と,入院中心主義の思想は引き継がれることになる

http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse1627.pdf

公立精神病院を作る余裕はなかった

「公立精神病院の設置義務」ができたまでは良いものの、その当時、日本は貧乏でした。(1950年は戦後間もないのでお金に余裕もなかった。)もちろん、都道府県に設置義務が生じた精神科病床について、そちらにお金を回すことはありませんでした。

圧倒的に足りないとされた精神科病床

1954年(昭和29年)の実態調査では「精神障害者の推定数は130万人・うち要入院は35万人」とされました(日本精神科病院協会より)。当時は精神科病床は3万床しかなく、「全く足りないではないか」という話になりました。(そこから1987年(昭和62年)の地域医療計画まで病床数は増加の一途をたどります。)

民間精神病院の激増

そこで民間精神病院にお金を投じることで、病床数を増やそうとしました。そこでできたのが「精神科特例」といわれるものです。

精神科特例とは、1958年に「精神病院においては、精神科医は内科や外科など他の診療科の1/3つまり入院患者48人に医師1人でいい。看護職も他科の2/3、つまり入院者6人で1人でかまわない。」と厚労相が通知を出したものです。

精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本

つまり、精神科においては「少ない医師数で、大勢の患者を診れるようになった」ということです。民間病院からしたら、「人員(人件費)を最小限に抑えつつ、患者は大量に入院させられる(お金は取れる)」というメリットがあり、大量の私立精神科病院ができました。(粗悪病院開設が広くなされました。)

他にも、精神科病院に対する国庫補助がもうけられたりもされ、病床整備は一気に進みました。

この頃に精神科への入院患者数は大量に増えました。当時の入院者が今に至るまで長い間入院されていたりもします。結果として、現在精神科病床が多すぎる事態となり、問題になっています(Number of long-term inpatients in Japanese psychiatric care beds: trend analysis from the patient survey and the 630 survey)。

日本精神科病院協会より

二次医療圏も関係なし

また当時、精神病院については二次医療圏を無視して病院作りが認められたため、地価の格別安い所に競うように建設されました。

この記事ある、「キタナイ」私立病院はそういうわけで、アクセスの悪いところに、存在するのです。

1964年東京オリンピック

1961年には厚労省が措置入院を推奨する通知を出します。精神科病床が、どんどん増えていくわけです。ここまでして精神科患者を病院に入院させた理由として、「1964年の東京オリンピック」を挙げる医師もいます(僕が病院見学の際に聞いた話です)。

「『外国人が大勢来るオリンピックを前に、精神科疾患患者を病院に入れて目の届かないようにしてしまえ』という考えがあったのではないか。精神科疾患への偏見は間違いなく大きかった。」

批判される精神科病院

「精神科は牧畜業者である」

ここまで病院が増えると、批判する人間も出てきます。1960年、当時の医師会会長の武見太郎が精神病院経営者を「牧畜業者」と非難しました。(病院として治療するのではなく、精神科患者を『飼っている』のだ、という批判でしょう。)(ただ、当の武見太郎が精神科病院が増える原因を作ったとの批判もされています。)

海外からも批判

1968年にはクラーク勧告も出され、海外からも批判を浴びます。
クラーク勧告では、「入院医療から地域福祉へと、精神科医療を転換していくべきだ」と指摘されました。(ただ、残念なことに1964年に起きたライシャワー事件の報道もあり、この勧告はほぼ全く無視されたと言われています。)

不祥事も相次ぐ

「なんちゃって精神科病院」が大量にできたことで、1960年代に多くの精神科の不祥事事件・告発が起きました。そのため、精神神経学会理事会から「精神病院に多発する不祥事件に関連し全会員に訴える」という声明も出ています。

そこでは以下の3点の問題が指摘されています。(不祥事件の内容を吟味、分析)

  • 医療不在、経済最優先のいわゆる儲け主義の経営
  • 私立病院経営者の持つ封建制と病院の私物化
  • 経営管理を独占する精神科医の基本的専門知識の欠如

ライシャワー事件から病床増加はまだまだ続く

それだけ批判された精神科病院(病床)ですが、病床数はどんどんと増加します。精神科疾患の人間が、犯罪に絡む度に、「精神科病床をもっと増やして入院させろ」ろいう流れになっているようです(詳細)。

1993年には精神科病床が35万に届きます。おそらく、ここら辺が病床数のピークになります。ここから病床数は若干の減少になっています。(先進国は1980年以降には精神科病床を急激に減らしていたのとは対照的。ー急激に病床数を減らしたデメリットも指摘されてはいる。)

精神科病床を減らそうという流れ(転換期)

1987年「精神保健法」

多方面から批判を受け続け、1987年(昭和62年)には「精神保健法」ができます。精神科疾患患者の、社会復帰の促進・そのための「精神障害者社会復帰施設」が規定されました。

  • 地域包括ケア
  • 入院医療治療から在宅医療へ

この時はじめて「精神障害者の地域への移行」が規定されました。今では有名になったこの考え方ですが、1987年から始まった物になります。

1993年(平成5年)に精神保健法は改正され。精神障害者地域生活援助事業(グループホーム)が法制化され、第二種福祉事業にも位置づけられました。

その後の法改正(脱施設化への動き)

「精神障害」=「障害」・そして社会復帰施設の拡充へ

精神保健法改正のあった1993年(平成5年)の末に「心身障害者対策基本法の一部を改正する法律」が公布され、「障害者基本法」が成立しています。ここで初めて「精神障害者」は「障害者の一部である」と位置づけられるようになりました(それまでは障害者=身体障害者であって精神障害者とは別だった)。

その後も「医療観察法」ができたり、精神保健法が「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」と改まり改正されたりして、社会復帰施設の拡充が進められています。(医療観察法については、社会復帰を詐害しているとの批判もあります。)

  • 2005年 障害者自立支援法
  • 2011年 障害者虐待防止法
  • 2012年 障害者総合支援法

というように様々な法律ができてきています。

おまけ)2006年「精神病院」から「精神科病院」へ

2006年6月、精神病院の用語の整理等のための関係法律の一部を改正する法律によって、日本の法文の中の「精神病院」がすべて「精神科病院」に変わりました。

「『精神病院』という用語には精神病者を収用するというイメージが残っており、そのことが精神科医療機関に対する国民の正しい理解の深化や患者の自発的な受診の妨げになっているから」という理由らしいが、そういう問題?そんなところよりも、もっと変えるべきところがあるだろうと個人的には突っ込みたい。

今後の課題・病床数はどこまで減らすべき?

現在精神科領域では、「精神科病床を減らせ」という流れだが、どこまで減らすべきなのでしょうか?

例えば、アメリカやオーストラリアでは精神科病床を減らした結果、浮浪者が大量に増えてしまい、逆に問題になったりしています。(精神科病床を完全に減らしてうまくいっている国は少ないです。)

精神科病床を減らすのは良いですが、精神科疾患を持つ人々の受け皿システムが無い限り、安易に病床数も減らせないなと思います。